22歳で少林寺最高師範に推挙

文化大革命のさなかに、武術に明け暮れて

秦西平氏の故郷は、中国の陝西省宝鶏市です。広い中国大陸の北西部に位置し、三国志で有名な五丈原は宝鶏市の郊外にあります。

両親は、当時としては珍しく、ふたりとも高等教育を受けており、中国解放前は、父方の祖父は江蘇省無錫に、また母方の祖父は上海郊外に、広大な土地を持つ地方の名家の出身でした。

秦西平氏は、2歳の頃から約2年間、無錫の祖父の元に預けられており、この時、祖父から受けた教育に大きな影響を受けたと後に語っています。文字すら読めない人が多かった時代に、祖父もまた高い学識と教養を備えており、古典、歴史、宗教などに造詣が深い知識人でした。

小学校に入学してから2年後、1966年から文化大革命が始まり、その後10年間にわたって中国は政治的、社会的に大混乱をきたした時代でした。

両親は豊かな家の出身であり、また知識人であることによって、紅衛兵や造反派の攻撃対象となりました。両親はつらさを口にしたことはありませんでしたが、まだ小学生であった氏にも、両親の置かれた立場や窮状は強く感じとれるものでした。

もともと頑健でなかった父は結核を患い、小学生であった氏も重い肺結核となり、休学、入院を余儀なくされました。病気から回復して普通の生活に戻ることができた時には、ひたすら「自分を強くしたい」と願うようになっていました。

10歳の頃から武術を学び始め、地元の先生から基本的な型を習っただけでなく、身体を鍛えるために、自分考え、様々な運動を組み合わせて練功しました。学校や家の手伝いがあったので、練習は早朝や夜になってからでした。そして15歳の頃には、日課の練習時間は7時間を切ることはなく、隣人も驚くような大人の体つきとなっていました。

憧れの聖地・嵩山少林寺へ

宝鶏で武術の練習に明け暮れていたある日、突然、見知らぬ僧がやってきて、「そんなに武術が好きなら、少林寺に来て、本格的に修行してみないか」と誘われました。当時、嵩山少林寺の僧は、全国行脚の折、武術の練習をする若者の姿に目を止め、一人で黙々と練習を続ける姿を3か月にわたって陰で見ていたのだそうです。

秦西平氏は、少林寺と聞いただけで心が躍ったといいます。当時も、現在も、嵩山少林寺は仏教と武術の両面で輝かしいイメージと絶大な影響力があります。16歳で在家のまま、嵩山少林寺に入門を許され、定期的に少林寺に通うようになりました。

期間を区切って寺に入り、寺で修行の生活をし、学ぶ。出家して僧になるわけではなく、在家のまま少林寺で修行を続ける、などというのは異例のことでした。文化大革命の頃で、僧が少ない時期でした。

(写真)少林寺山門

少林寺山門

嵩山少林寺での拝師の儀式

嵩山少林寺での数々の思い出のなかで、最も印象深いのは「拝師の儀式」です。これは寺が入門を認めるという意味を込めて行ってくれるもので、この段階で初めて指導僧と明確な師弟関係を結ぶことになります。

この儀式は、管長以下の主だった僧が参列しておごそかに執り行われました。香がたかれ、読経が流れるなかで、管長が唱える「少林寺の十戒」の教えを守ることを一条ずつ誓っていきます。例えば、「師を尊敬し、道徳を守れ。文武を共に向上させよ。お前はこれらのことを守れるか」、「はい、守ります」といった具合に進みます。それが済むと、まず部屋に安置されている観音菩薩像に、次は歴代の高僧たちに、そして最後は直接の師に、それぞれ合掌して額づき、9回特別な形のおじぎをします。

ただ緊張して、師が見せてくれる型を真似、師が唱える経文を真似て繰り返すうちに儀式はゆっくりと進行し、終わった時には2時間が経っていました。この時、「釈延平」という法号を賜りました。

「嵩山少林寺という由緒ある寺の歴史に自分も連なっていくのだと思うと、それまで経験したことのない感動が押し寄せてきました。この儀式が今日まで続く私の修行生活の出発点となりました」と秦西平氏は後に語っています。

(写真)礼拝する僧

礼拝する僧

(写真)儀式を執り行う僧侶

儀式を執り行う僧侶

少林武術の「気」をめぐらすということ

寺での生活は、毎朝4時起床の規則正しい日々でした。まず朝は全員で嵩山の山々に向かって気功を行います。また全員お堂に集まってお経をあげる朝晩の日課があり、座禅の日課もありました。食事は日に3回、6時、12時、6時と決まっています。

朝の食事が終わるとさっそく武術の練習に入ります。基本的には自分で自主的に練習し、時々、師が来て注意を与えてくれます。師が各自の練習ぶりを見て、練習の成果が表れていたら次のステップへ進むことが許されました。スケジュールもカリキュラムもなく、技術の習得のスピードには大きな個人差があります。

少林寺では、武術未経験者などの入門者は、まず体力づくりや基礎訓練に約3年かけます。秦西平氏の場合は、入門当時すでに6年の訓練経験があったので、これは半年ほどで次の段階に進むことができました。

次の段階でようやく少林武術の型の訓練に入ります。それに座禅による瞑想や集中力の訓練、硬気功が加わり、さらに進むと、武器や格闘技とより激しい内容に移っていきました。

格闘技といっても防具はつけない。したがってケガも多く、歯を失ったり、白い骨が見えるほど肉がはがれてしまったこともありました。寺は山中にあり、当時は、病気や怪我でもすぐに医者にかかることが困難だったため、手当の方法を習得するのも大事なことでした。

少林武術の練習で、師から常に注意を受けたのは「気」をめぐらすということです。中国武術では一般に「ただ型を覚えても、気が伴っていなければ、その人は年をとったらそれだけで終わってしまう」とよく言われます。師に「身体の各部の動きにつれて気を運べ」と言われても、初めのうちは実感としてわかりませんが、修行が進むにつれて、だんだんと感覚がつかめてきます。

座禅も熱心に行いました。入門したばかりの頃は、また瞑想の段階のレベルは低いものですが、集中力と静かな心を求めて座禅をする時間が増えるとともに、しだいに瞑想のレベルが高まっていきました。

28日間の断食と100日間の座禅の「百日大閉関」

少林寺には、悟りを得る禅の修行方法のひとつとして「大閉関」(断食して薄暗い部屋に籠る座禅)があります。少林寺に入門して3年目、1976年4月に秦西平氏は、28日間の断食と100日間の座禅を行う「百日大閉関」に挑戦しています。その時のことを次のように語っています。

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武術は元々好きでしたが、入門してから座禅もとても好きになりました。修行をしていくうちに少林寺の気の場の強さや、座禅の心地よさがわかるようになりました。瞑想集中の時には人体の美しさがわかりました。そうなると次は、さらに深いレベルの心のコントロールを求めるようになりました。それが「百日大閉関」に挑戦した理由でした。

まずひとつの部屋が用意されました。入り口はなく、レンガですべて締め切っており、上の方には飲み物などを受け取るための小さい窓だけがあります。窓を閉めると真っ暗になりますが、暗室にあるような赤い小さなランプが点いています。トイレはなく、床の大きな穴で用を足します。

18歳で体力は充実し、また農村での厳しい労働経験により精神的にも成熟していました。その頃、私はとても大食で一度に三人前くらい食べていましたので、第一日目からすぐに断食を行うのは難しく、少しずつ食事の量を減らすことにしました。数日かけて食事を減らしていき、5日目から飲まず食わずの状態になりました。

何も変化のない暗闇の中ではしだいに心の中の会話だけになっていきます。さらに日が経つと自分自身が嫌になり、世の中が嫌になり、生きていくのが嫌になり、そして身体がだんだん辛くなっていきます。その時こそ、自分の忍耐力が試されるのです。しかし、私は気功を練習していたため、自分の内部の世界が楽しいという独特の感覚があり、これはとても役に立ちました。

人間の一番基本的な欲は食欲です。28日間食べないで過ごすことは人間の世界から外れることであり、自分欲望を乗せる肉体の存在から解放され、意識と精神のみが残った状態です。人間の意識と宇宙の気が近くなり、自分自身を支配している本質的なものを感じられるようになります。

さらには、自分の気と嵩山の気がひとつになり、あるいは自分の生命エネルギーと宇宙のエネルギーがひとつになったように感じられます。自分が、嵩山なのか、森の樹々なのか、大地なのか、太陽なのか、月なのか、わからない。そして、わからないのが楽しいという感覚になります。

最後の1か月はとても楽しく、あっという間に過ぎていきました。断食が終わった後も食事の量は自然ととても少ないままでした。突然、外から大きな声で名前を呼ばれ、「100日間が終わりました」と声をかけられました。ずっと座禅を行っていたので、私はすぐには立てず、皆さんに助けられて部屋を出ました。

大閉関は少林寺の秘伝の部分であり、当時は公開されていませんでした。特に百日大閉関は長い間行われていませんでした。百日大閉関の後、私は全く別人になったように感じ、以前の自分の視点とは違う角度から世界を感じるようになりました。
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22歳で嵩山少林寺第34代最高師範の称号を受ける

1980年、少林寺に通って武術に励むという生活も6年目、この間、秦西平氏は、農村での労働に2年間従事し、また10年ぶりに復活した大学入試に合格して、西安理工大学の学生になっていました。

ある日、いつものように寺を訪れると、当時の管長に呼ばれ、今日から「嵩山少林寺第34代最高師範」を名乗っていいと言われました。これは大変な名誉でした。突然のことに驚くとともに、心の底から大きな喜びが沸き上がりました。

出家して僧として寺に入ったわけでもない自分が、寺から信頼され、認められ、歴史ある寺の1ページに第34代継承者として名前が刻まれるということに、大きな喜びと感謝の思いを感じたのでした。

6年前、初めて山門をくぐった時に受けた拝師の儀式。その同じ部屋で今度は34代継承者最高師範の儀式を受けることになりました。あの時と同じように師のあとについて経文を唱え、同じように独特なやり方で観音様や師を拝みました。この6年間の様々な思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、10歳から始めた修行の日々が思い出されたのでした。

それから後の2012年、秦西平氏が率いる全日本少林寺気功協会の少林寺訪問の際に、現在の師である釈永信管長は、異例の扱いで、嵩山少林寺第34代最高師範の証書と旗を授与してくださいました。

(写真)釈永信管長より嵩山少林寺第34代最高師範の証書と旗を授与

釈永信管長より嵩山少林寺第34代最高師範の証書と旗を授与

秦 西平(チン・シーピン)のプロフィール